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森村進氏の応答に対する簡単な応答

橋本努200610

 

 

 拙稿「自己所有権型リバタリアニズムの批判的検討」『法哲学年報 2004 リバタリアニズムと法理論』(2005)において、私は森村進氏の独創的な立論――自己所有権型リバタリアニズムの一類型――に対していくつかの批判的検討を試みました。この拙論に対して森村氏からの応答がありましたので、その応答に私から簡単なコメントを(ホームページを通じて一般読者に)付します。

森村進氏は、ご高論「自己所有権論の擁護――批判者に答える――」『一橋法学』第五巻第2号、2006.7.の中で、高橋文彦氏と立岩真也氏と小生からの批判に応じられています。森村氏の小生に対する応答は比較的短いものですが、氏は私の批判を三つにまとめて、それぞれ応答されています。

第一の論点は、自己所有権型のリバタリアニズムは、成長論的自由主義が関心を寄せている、@「潜在的に創造可能な財(無体財や人的資本など)の形成」やA「だれにも帰属させずに利用される財(言語などの「客観的知識」(ポパー))を有効利用すること」にはあまり関心を寄せていない、という私の批判です。

これに対する森村氏の応答は、「この指摘の正しさは否定しがたい」ということで、「無体財産権」や「公共財」の問題には、帰結主義的な考慮が働くべきである、と述べられています。これはつまり、森村氏は部分的に、成長論的自由主義のアイディアを容認する、ということでしょう。異論はありません。

 第二の論点は、身体の中で、「手足」と「臓器」を区別するという小生の発想ですが、森村氏は「これまで身体の中で臓器と手足を区別するという発想は持っていなかった」ということで、この応答の中で新たな考察を少し加えられています。森村氏によると、身体の部位によって権利感覚は異なるだろうから、身体所有権のさらなる分別が要求されるかもしれない、とのことです。しかし「この問題はこれ以上触れられない」とのことです。

私が思うに、身体所有権の分別という発想はとても重要で、この分別を徹底すれば、森村氏のラディカルな自己所有権論は、その論理的効力の再検討を迫られることになるかもしれません。しかしこの問題については、私もいつか真剣に考えてみたいと思っています。

 第三の論点は、自己奴隷化契約をめぐる問題です。小生はこの問題について、いろいろと考察した末に、森村氏はやはり自己奴隷化契約を認めるべきではないか、という批判を投げかけました。これに対する森村氏の応答は、「……この[自己奴隷化]契約の法的拘束力はごく弱くなるが全く無効というわけでもなくなる」とのことです。この応答は、私の立論に譲歩されているように読み取れます。森村氏は、「私のこの結論が首尾一貫しない妥協であるのか、それとも私が考えたように自己所有権論と私の人格同一論(森村[1989]第一部第五章)という二つの原理のベクトルの和であるのかは、読者の判断にお任せする」とのことです。

 私は森村氏がここで、自己奴隷化契約を「全く無効というわけでもなくなる」と述べられている点を、きわめて誠実な応答であると思いました。もちろん、自己奴隷化契約を認める際の論拠は、森村氏と小生のあいだで異なります。しかしいずれにせよ、大きな論的がここに一つ明らかになったと思います。

 以上の三つの論点につきまして、私は森村氏から真摯な応答をいただきましたことを、ここに感謝申し上げます。

 最後に蛇足ですが、私も別の論稿の中で、森村氏から挑発的な批判に、これまたさらに挑発的な応答をしましたので、その箇所だけ、ここに付しておきます。もちろんこの箇所は笑い流していただいてかまいません。

 

「成長」という理念を掲げると、「多くの人々は別に成長したいと思っていない」という批判が返ってくるかもしれない[1]。これに対する私の挑発的応答は、「人は一般に、自らは成長したがらず、むしろ人々を切磋琢磨させることによって多くの利益を得ようとするエゴイストなのであるから、思想家もまた自らの成長を棚上げにして、社会の成長を考えるだろう」というものである。このエゴイズム的発想は、反成長志向の人間像よりもいっそう現実的であるように思われる。以下に論じる成長論の四つの系譜は、それゆえ、エゴイストの企てとして受けとめられてもかまわない。けだしエゴイストは、残基に突き動かされる公共的存在だからである。(拙論「公共性の成長論的再編」井上達夫編『公共性の哲学としての法哲学』ナカニシヤ出版、2006年、所収)

 

 私もすでに、「あなたはもう成長しないだろう」と揶揄されるような年齢になりましたので、ここにエゴイスト版成長論的自由主義論の企てを述べてみた次第です。詳しくは拙論をご笑覧くださいませ。この拙論は、「残基としての公共性」という新たなアイディアを提起しております。

 以上です。

 

 



[1] 森村進氏は私の立論に対してそのような批判を投げかける。森村進「リバタリアニズムの人間像」『リバタリアニズムと法理論』法哲学年報2004、有斐閣、所収を参照。